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ごみばこ

企業戦士や経済戦争という言葉では満たされない闘争本能があるというお話

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 どうもみなさんこんにちは、きむちびと申します。

 本日は表題の通り、企業戦士や経済戦争という言葉では満たされない本能についてお話します。

もしあなたが二〇〇万年前に東アフリカを歩き回ったとしたら、きっとお馴染みの群像に出くわしたことだろう。心配そうに赤ん坊を抱いてあやす母親、泥まみれで遊ぶ屈託のない子供たち、社会の掟に苛立つ気難しい若者たち、くたびれ果て、そっとしておいてもらいたがる老人たち、逞しさを誇示し、あたりに住む愛らしい娘の気を惹こうとする男たち、酸いも甘いも噛分けた賢い女性の長老たち。彼ら太古の人類も、愛し、遊び、固い友情を結び、地位と権力を求めて競い合った───。

引用 : サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福(著者:ユヴァル・ノア・ハラリ)

 引用にある中で私のような働き盛りの男はまさに"力を誇示し、あたりに住む愛らしい娘の気を惹こうとする男たち"の一人なのですが、当時の男たちは力を誇示するためにイノシシを仕留めてみたり、川に飛び込んで魚を獲ったり、隣の村のムカつくごろつきを石斧で頭カチ割ったりして、種の生存という観点での安定性をアピールし、又は、そのアピール自体が自然な行為で、まさにそうした種が脈々と続いてきたのです。

  こうしたところを出発点に考えると、男という性を持つ者は、心の底から本能を満たすために、力の誇示が必要なのではないかと思うわけなのです。

 現代の男たちも「経済競争だって戦争なんだ」ということで経済戦争と言ってみたり、サラリーマンを戦士に準えて、企業戦士だとか言ってみたり、経済活動を戦争や戦士文化に当てはめたりするものの、それは結局は本能を満たす行為としての比喩、しかも実際の戦士文化とは程離れたまさしく的外れな比喩なのです。

 パソコンをカタカタ打ちまくることで満たされる本能、なんていうものは男の中には一かけらも存在していないのです。案件を一つ成功させたところで、サーベルタイガーの牙をいなし、その体に鈍器を振るう時の気分、高揚感には遠く及ばず、そしてエクセルや、データベースの勉強も、戦士となる上での一つの訓練なのかもしれませんが、本当に男たちが望んでいる訓練や強さというものは重い槍を自在に振り回せる強さなのだ、と心のどこかが言うとしたら・・・。仕事は、経済機構の要請で作られていますが、個人がそれに対してどれだけ適応しても、こうした飢えを満たすことはできないのではないでしょうか。("飢え"というものが人の心を病み、自害を選ばせるという論がエミール・デュケームが書いた"自殺論"という本の中にあって、面白いので是非読んでみてください。)

 それ故に、欧米の企業重役がもう既に十分社会人として成功し、まさしくプロフェッショナル企業戦士となったにも関わらず、わざわざアフリカへと動物を狩りに出かけたり、それほどの時間も金もない普通のサラリーマンが、仮想の世界で騎士になってモンスターを退治したり、世紀末的な風景の中で悪漢とショットガンの撃ち合いをするFPSを楽しんだりしないと収まらないところに、経済競争で作られる闘争は、まさしくフェイクの闘争であり、本当に男たちが求めている戦いは、そうした経済戦争だとか、そういうハリボテのような看板では隠せないような、もっと一義的な戦いなのだとそのように思うわけです。

 そのような男の子的な本能的なものを、男たちの全員とはもちろん言いませんが、ある一定数は深層心理で引きずって生きていかないといけないのではないか、とそのように思うのです。こうしたまさしく"戦士欲求"というものはオフィスで仕事して、それがいくら成功して金銭をもらったところで決して満たされる欲求ではないように思います。

 

@20190316 文章の区切り、文言を分かりやすいように少し修正